笑い合うsummer


私たちの間にあるのは友情ではなかったし、夏だけではなく春も秋も冬もあった。

でもなぜか、いつも夏だった気がしている。思い出すシーンが、すべて夏になる。初夏の木漏れ日。炎天下。夏の夜。雷を伴う夕立ち。夜店。秋の気配。秋の気配。

一番最後に、そして一番無邪気に、ふたりの時間を楽しく過ごしたのが夏だったから、すべての記憶をそこにぎゅっと詰め込みたいのかもしれない。


星野源の「friendship」という歌が好きで、iPodにも入れているので割と聴いていたつもりだった。でも先日ANNで弾き語りを聴いた時、それまでとまったく違う光景が私の中に広がって、ああラジオでよかったと思ったのだった。

これをライブ会場で生で聴いていたら、腑抜けになった気がする。


「笑い合うさま」という歌詞が、それは「笑い合っていたようす」という意味であることが頭では分かっていても、「笑い合うsummer」に変換されてしまった。

すべての共に笑い合った思い出が、夏だと思った。

こんなにも明るく切なくやるせなくどうしようもなく、超えられない測りようのない距離のある、私たちの関係を歌われてしまったと思った。

甘美で美しい記憶の中に流れる歌になった。


もうすぐ私たちのひとつの終わりとなった日付をまた迎える。

どれだけ記録が更新されようとも、あの夏より暑かった夏はなかったと思っているし、あの夏ほど気温など記憶にない夏もない。

現実では笑い合えなくとも、花を買って記憶の中で笑い合おうと思う。


いつの日か会えるような

幻を見て一歩踏み出すsummer


Vie et mort

日常生活にあるもっとも身近な「生と死」は何だろう、とふと考えて、「あ、食事だ」と思った。

 


ひとりで食べる時は個人的に単なる「餌」だとしか思っていないのでほとんど料理はしない。そしてひとりで、あるいは誰かとお店で食べるのではなく、家で、誰かと食べるために作って、それを一緒に消費する行動はとても「生と死」なのではないだろうか。

命をいただく、という意味ではない。よく描写される、食べることは生きること、とも違う。

もちろんそれも大切なことで、生き物は別の生き物の死をもってして、自分の生とする。食べたものが身体を作る。食材を選ぶ時の栄養価などはともかく、その命を意識しながら料理をすることは、あまりない。どう切るか、どう味付けするか、どの器にどう盛るか、そんなことを考えながら作る。命について思うのはせいぜい「いただきます」を言う時くらいだ。

そうではなく、料理して何かを生み出し、食べることによってそれが消滅するという一連の行為、それが一種の「生と死」なのではないかと。

 


家庭の事情で幼い頃から料理はしていたし、好きでもあるし、特に働いていると「やりたいことをやりたいペースでできる」という意味で料理をすることはストレス解消にもなった。

人に食べてもらうとその反応も糧になるし、何を作ろうとか、どんな工夫をしようとか考えるのも楽しかった。生み出す行為そのものだ。愚かなことに、そんな単純なことに気がつかなかった。

あまりに「生活」の一部だからだろうか。

「生きるための活動」で「生活」なのに!

 


身体を壊してもう1年近く、我が家では家事のほとんどを夫が担っている。

彼は料理が好きで得意で、私がどれだけ体調が悪くても食べられるものを不思議と作ってくれる魔法使いのような人だ。

そのご飯を美味しく食べて、療養して、少しずつ運動して…そうすればきっと元気になれる、と思い続けていたけど、1年前より現状としては、悪い。

それは断じて彼のせいではないけれど、私の中で家での食事が「生と死」と結びついたとき、少しぞっとした。

このところ私はずっと「死」ばかりだった。一方的に「消費」だけしていた。

身体の栄養にはなっても、それはもしかしたら精神には届いていないのではないか。

 


仕事をこなすことも、人と喋ることも、文字を書くことも、絵を描くことも、生み出すことだけれど。

少しでいい。一品からでいい。無理をしてでも私が作って、一緒に食べようと思う。

それがきっとなにか別の栄養になって、これからの私を支えてくれる気がする。

羅針盤

手のひらを空に向けて、伸びをする。その手の甲をしばし眺める。

羅針盤を与えられた時から、そうするようになった。

私の針は空と地の両方を指している。

どこまでも広がっている空。境目のない空。刻々と表情の変わる空。足がついている地面。歩いていく地面。踏みしめる地面。

体がどこへ行っても、心がこのふたつから離れないように生きる。そうしたら奏でられる。そうしたら紡げる。それは単なる直感だけれど。

 


世界を味わい尽くして死にます、と宣言した私に、かけられた言葉が羅針盤となった。でも、私はその言葉が意味するところを、本当の意味では理解できていない。

だから手を伸ばして、手と空や、手と天井を眺める。

私になにが掴めるか、私がどうそれを捉えられるか、そしてどう言葉を返すことができるのか。分からなくても、芯のところだけは、見失わずにいられますように、と。

 

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