Vie et mort

日常生活にあるもっとも身近な「生と死」は何だろう、とふと考えて、「あ、食事だ」と思った。

 


ひとりで食べる時は個人的に単なる「餌」だとしか思っていないのでほとんど料理はしない。そしてひとりで、あるいは誰かとお店で食べるのではなく、家で、誰かと食べるために作って、それを一緒に消費する行動はとても「生と死」なのではないだろうか。

命をいただく、という意味ではない。よく描写される、食べることは生きること、とも違う。

もちろんそれも大切なことで、生き物は別の生き物の死をもってして、自分の生とする。食べたものが身体を作る。食材を選ぶ時の栄養価などはともかく、その命を意識しながら料理をすることは、あまりない。どう切るか、どう味付けするか、どの器にどう盛るか、そんなことを考えながら作る。命について思うのはせいぜい「いただきます」を言う時くらいだ。

そうではなく、料理して何かを生み出し、食べることによってそれが消滅するという一連の行為、それが一種の「生と死」なのではないかと。

 


家庭の事情で幼い頃から料理はしていたし、好きでもあるし、特に働いていると「やりたいことをやりたいペースでできる」という意味で料理をすることはストレス解消にもなった。

人に食べてもらうとその反応も糧になるし、何を作ろうとか、どんな工夫をしようとか考えるのも楽しかった。生み出す行為そのものだ。愚かなことに、そんな単純なことに気がつかなかった。

あまりに「生活」の一部だからだろうか。

「生きるための活動」で「生活」なのに!

 


身体を壊してもう1年近く、我が家では家事のほとんどを夫が担っている。

彼は料理が好きで得意で、私がどれだけ体調が悪くても食べられるものを不思議と作ってくれる魔法使いのような人だ。

そのご飯を美味しく食べて、療養して、少しずつ運動して…そうすればきっと元気になれる、と思い続けていたけど、1年前より現状としては、悪い。

それは断じて彼のせいではないけれど、私の中で家での食事が「生と死」と結びついたとき、少しぞっとした。

このところ私はずっと「死」ばかりだった。一方的に「消費」だけしていた。

身体の栄養にはなっても、それはもしかしたら精神には届いていないのではないか。

 


仕事をこなすことも、人と喋ることも、文字を書くことも、絵を描くことも、生み出すことだけれど。

少しでいい。一品からでいい。無理をしてでも私が作って、一緒に食べようと思う。

それがきっとなにか別の栄養になって、これからの私を支えてくれる気がする。